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1962(S37)年 12月31日、父俵好夫、母智子の長女として生まれる。
「万智」は父方の祖母篤子の命名。1年3カ月でやっと歩く。生まれたときから 運動神経が鈍かった。本好きの母親に、絵本をよく読み聞かせてもらった。お気に入りの『さんびきのやぎのがらがらどん』は、一冊まるごと暗唱できた。4歳まで大阪府門真市で育ち、その後四条畷市へ転居。
1968(S43)年 忍が丘幼稚園入園。スキップができなくて、足が悪いのではと木元弘美先生に心配される。これも運動神経の問題。体は鈍いが気持ちは活発で、卒園式には園児代表で挨拶をした。
1969(S44)年 四條畷市立四條畷小学校入学。近所の内海さんというおばさんの家にいりびたる。そこには大量の子ども向けの本があって、子どもたちに開放されていた。『ながくつしたのピッピ』や『名探偵カッレくん』や『やかまし村』や『怪人二十面相』などのシリーズを次々と読む。
1972(S47)年 弟の太一誕生。
1975(S50)年 四條畷市立四條畷中学校入学。英語の森田準二先生に憧れて、中学1年で英検3級を取得。森田先生顧問のバレーボール部にも入部するが、万年球拾い。中学2年の夏、父親の仕事の関係で福井県武生市へ転居。2学期から武生第一中学校へ通う。ここではじめて、自分が大阪弁をしゃべっていることに気づく。友だちを作るために福井弁を一生懸命練習した。勉強が大好きで、平日で4、5時間、休日には13時間ぐらい机に向かっていた。
1978(S53)年 福井県立藤島高校入学。卒業生に詩人の荒川洋治さんがいる。高校の最寄り駅が「田原町(たわらまち)」だったので、誰からも名前を覚えられた。顧問の田辺洋一先生に憧れて演劇部に入部。
別役実、清水邦夫、つかこうへいなどの戯曲に夢中になる。演劇部室では、毎日のように 仲間と戯曲を読みあったり、部室のノート上で議論を戦わせたりと、文学的な刺激も多かった。他に社会人のアマチュア劇団にも参加。チェーホフの「熊」のヒロインを演じた。きっかけは、図書館でよく会う定道明先生に憧れて。(先生がその劇団を主宰していた。)2年生の秋、しばらく交際していた先輩に失恋。何も手につかなくなる。ただぼーっと
するか日記をつけるかだけの毎日となった。学年で十番以内をキープしていた成績も急降下。両親はこういう時に、がっかりしたり励ましたりしないタイプで、ありがたかった。
3年生になっても受験勉強をする気がおきず、推薦で入れる早稲田大学に決める。学力検査はもちろん面接も論文もなかった。
1981(S56)年 早稲田大学第一文学部入学。中野区野方に下宿。「美しい日本語を研究するサークルです」というキャッチフレーズに惹かれアナウンス研究会に入会。基本的な発声訓練から、ラジオドラマを作ったり朗読会をしたりと、活動内容は多彩
。趣味と実益をかねたアルバイトにも多く恵まれた。高田馬場駅でのラッシュ時の構内放送や、六大学野球の場内アナウンス、また選挙のときのウグイス嬢などなど。ホームシックがひどく、福井の家族あてに常に葉書を書いていた。三日で二枚、というぐらいの割合。
1982(S57)年 佐佐木幸綱先生の「日本文学概論」という講義を聞き、すっかり魅せられ、以来せっせと先生にファンレターを書く。著書もかたっぱしから読み、そこで短歌と出会った。ファンレターに、見よう見まねで作った短歌を記す。文学部だけでは飽き足らず、先生が講義をしていた政経学部でも何コマか聴講。毎日新聞の「女の気持ち」という欄に、銭湯で出会った母子のことを投稿、掲載される。
1983(S58)年 角川書店の歌誌「短歌」の公募短歌館に初めて投稿。塚本邦雄選の秀逸に選ばれ、勇気が湧き、秋に竹柏会「心の花」に入会。歌会や編集の手伝いなどで、直接佐佐木先生にお会いするチャンスが増え、ますますはりきって短歌を作るようになった。また、黒岩剛仁や谷岡亜紀などの仲間に出会い、刺激を受け、短歌賞への応募を思い立つ。
1984(S59)年 2月に応募した作品50首が、第30回の角川短歌賞の候補作となる。このときの作品は残っていないが、タイトルは「賢造日誌」という。高校生のときの失恋が、まだ尾をひいていたようだ。
1985(S60)年 早稲田大学第一文学部日本文学科卒業。卒業論文は「短歌の連作」。神奈川県立橋本高校の国語教諭となる。昨年にひきつづき応募した「野球ゲーム」が第31回角川短歌賞の次席に。『「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの』の一首が多くの人に引用され、この年は短歌誌を開くと、あっちでもカンチューハイ、こっちでもカンチューハイという感じだった。
1986 (S61)年 毎年50首を自分への宿題とする癖がつき、ひきつづき応募した「八月の朝」が第32回角川短歌賞を受賞。受賞第一作として「サラダ記念日」30首を発表。「小説新潮」で小林恭二氏のインタビューを受ける。(このときに撮ってもらった写真が、後に歌集の表紙になった)。歌集をまとめたいなと思っていたところへ、河出書房新社の長田洋一氏があらわれ「出版したい」とのこと。準備をすすめる。同じころ「月刊カドカワ」の佐藤秀樹氏と見城徹氏から、短歌の連載を依頼される。写真家の浅井愼平氏とのコンビで「とれたての短歌です。」が翌年の2月からはじまった。
1987(S62)年 5月、第一歌集『サラダ記念日』出版。初版8000部。ベストセラーになった。雑誌やテレビのインタビューが続く。ただし月曜の朝から土曜の昼までは、それまで同様の教師としての毎日。学校という砦があったから、平常心が保てたのだと思う。校長はじめ同僚がとてもあたたかく協力してくれたことも大きかった。
1989(H1)年 4年間勤めた橋本高校を退職。ささやかながら与えられた「書く」という畑。それを耕してみたかった。
1991(H3)年 第二歌集『かぜのてのひら』出版。
1993(H5)年 憧れの演出家つかこうへいさんの稽古場にいりびたっていたところ、「そんなに好きなら、おまえも書いてみろ」とすすめられ、その気になる。
1994(H6)年 1月、「ずばぬけてさびしいあのひまわりのように」を上演。4月、再演。11月、「二分の一秒 笑顔をとめて」を上演。稽古場に毎日やってくるヘンな作者だった。
1997(H9)年 第三歌集『チョコレート革命』出版。4月より「NHK歌壇」の司会、6月より「読売歌壇」選者をつとめる。
1998(H10)年 2月、インターネット上にホームページ「俵万智のチョコレートBOX」を開設。
2001(H13)年、朝日舞台芸術賞の選考委員となる。劇場通いに拍車がかかり、多いときで週に4本、少なくとも2本、という感じで芝居を見る。とりにくいチケットが手に入るのではないかとの下心から引き受けたが、まさにそのとおりになり、夢のような日々。バレエやコンテンポラリーダンスなど、観るものの幅も広がった。12月から新宿ゴールデン街の「クラクラ」でアルバイトをはじめる。時給1300円。帰りに近くで飲んでタクシーで帰るので赤字だった。開店の7時から12時までは、一人で店を切り盛りした。焼きうどんが上手くなる。
2003(H15)年 8月25日から翌年3月4日まで、讀売新聞夕刊に初めての小説「トリアングル」を連載。「その勇気、無免許で高速道路を運転するようなもんだね」と友人から言われる。11月3日、男児出産。
2004(H16)年 「短歌」6月号の俵万智特集で、新作101首「プーサンの鼻」を発表する。評論『愛する源氏物語』で第14回紫式部文学賞を受賞。